毎日寒いですね。
今日は残念なお知らせ。
去年紹介させていただいたバラ農家さんの丸山バラ園さんが廃業されました。
とても美しく丈夫なバラを
生産されていて当店にも置かさせて頂きました。見学させて頂いた丸山さんの温室はとても丹念に手入れされバラたちが堂々と咲き誇っていました。
店頭に並べる時「あの温室からやってきたバラがお客様のお宅に旅立って行く」そんな実感を得ることができて幸せでした。
普通は生産者さんの顔や生産されているところは知り得ませんからこれはかなり特別なことでした。
仲卸さんや問屋さんは生産者の方のことをご存知かもしれませんが店頭に並ぶ様はあまりご存知ないと思います、そして小売り業者は店頭のことは知っていても生産者さんのことはあまり知らないものです。
長い間この業界にいながら生産の現場を見る機会が無かった私にとって丸山さんの温室を見学させていただいたことはものすごく勉強になり刺激になりました。ありがたかったです。
さて廃業の理由は燃料費の高騰だそうです。つまり採算があわない、ということでしょうか。これ、この業界にいる人は幾度となく感じる歯痒さ。
生産コストがかかる→花の価格が上がる→購入意欲が下がる→売れない→生産者さんが廃業する→供給量が下がる→花の価格が上がると悪循環きわまりないのです。
さて花の値段って高いんでしょうか?これは難しい問題です。花は生活必需品ではありません、贅沢品なのかも知れません。では贅沢品って無くてもいいものでしょうか?だって畑で咲いてるし、無くても飢える訳じゃないからいらないよね?みたいな感じでしょうか?
お金を払って快感を得る、これが贅沢品です。必要最低限のライフラインを手に入れるのとは別物です。でも私は思うのです。贅沢品って特権階級の富裕層のものではない、と。
贅沢品って「これを買ったら贅沢な気分を手に入れられる」ってことが分かっている人たちのものだと思うんです。
散財の目的物ではなく値段の高さでもなく見栄のためでもなく、自分に優雅な時間を与えてくれるもの、それが贅沢品、ではないでしょうか?
ちょっと洒落たカフェでお気に入りの本を読み香り高い珈琲を飲む時間、着心地のいいパジャマに手をとおす瞬間、長年憧れていた車でドライブにでる、極上の一粒のチョコ、小さなものから大きなものまでその人に至福の時を与えてくれるものこそ贅沢品、と私は思います。
花が贅沢品、その通りなんです。飢えや寒さを凌ぐことはできないけれど、優雅な時間を与えてくれるものなんです。
ブーケを持たない花嫁さん、想像できませんよね?花束のない送別会、味気ないですよね?花の備えられていない仏様、寒々しいです、スタンド花のないオープン初日、やる気そがれますよね?供え花の無いお葬式、私なら往生出来ません。
生活のたくさんの場面に花って登場するものです。けれど花が常にお家に飾ってあるお宅って少ないような気がするんです。
おおげさなものでなくても庭に咲いた花を飾ったり(そもそも庭で植物を育てている家が少なくなってきているのはありますが)、観葉植物を置いてみたり、みなさんはされてますか?一輪そっと飾ってみたらその花がもたらす贅沢な時間に気づき、やがて無くてはならないものになると思います。
イギリスで暮らしていた頃、町のいろんなところで「フラワーストール」という花の屋台を見かけたものです。
犬の散歩中の方や初老の紳士がよく花を買っていました。ちょっとした訪問にも花とワインを持っていく、家にいる奥さんに買って帰る、色んな目的で花を買っていました。こんな風に花がもっと日本の生活にも浸透したら花の値段も下がって買いやすくなるのにな、と思いました。
安ければいいわけではありませんが、手を出しやすい雰囲気が生まれるといいのに。お誕生日や記念日だけのものではなく普段からあってもいいものなんだって気づいていただけると花屋としてはうれしいです。
丸山さんという尊敬し信頼していた素敵な生産者さんが廃業、その知らせに本当にたくさんのことを考えました。花が売れなくなっているとしたらそれは小売りに相当の責任があるのではないか、と。
あんなに素晴らしいバラを、そのよさを消費者のかたに伝えきれていない、そしてあのバラたちの魅力を引き出す技術が未熟なのではないかと。花を「ただ高いもの」と消費者の方にすりこんでしまっているのは他ならぬ小売り業の花屋たちではなかろうか、と。
そこを「高くても価値のあるもの」「お金を出しても手に入れたいもの」と思わせる努力を怠ってきたのではかいか、と。バブルの頃は素材だけで売れていました。
なんでも売れました。胡蝶蘭でもバラでもなんでも。夜の街では1万、2万の花束が当たり前、そんな時代にあぐらをかいてそのまま努力をしてこなかったんじゃないか。
そう思うと本当に不甲斐ないです。努力していこう、そう誓いました。